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執筆者の写真川口建

五代友厚、大久保利通を案内し富田林寺内町の杉山邸に来た!

更新日:2021年12月13日

11月10日(火)、天誅(忠)組記念館の草村館長主催の「寺内町とその周辺の天誅(忠)組志士達の生家・墓碑等を探訪」するまち歩きに参加した。私は、この地には五代友厚と大久保利通、そして堺県令税所篤が訪れているはずと頭にあった。当日はその痕跡は見つけられなかったが、後日草村館長より下記の記事を見つけ連絡を頂いた。ありがたい。


●とんだばやし歴史散歩(祢酒太郎著)「大久保利通が杉山邸に来たこと」


『明治八年二月六日、維新政府の大立者、内務卿大久保利通が富田林に来た。前日、午後四時頃、帰宅した杉山団郎氏から六日に内務卿大久保利通が、大阪の商工業の発展のため活躍していた五代友厚や堺県令らと千早城跡に行くため、杉山邸で昼食をとることを聞いた戸長の杉本藤平氏は、早速、村中へ道路の清掃を申しつけた。六日の朝、十一時に大久保利通らの一行七名が杉山邸に着いた。一行の中の一人の男が鉄砲を持っていて、富田林に着くまでに小鳥十七羽を撃って持って来ていた。昼食をすませると、大久保利通以下三名だけが人力車に乗った。もっとも、富田林の村の中では、村民の歓迎にこたえるためか、歩いて通った。午後二時頃、今の河南町の中村に着き、長沢という大きな家で一泊した。


七日に水分村から金剛山、葛城山のふもとで猟をすることになっていた。早朝、寒風を突いて出発した一行は金剛山の峯づたいに千早に出たのであるが、雪が凍ってすべるため、一匹の獲物もなく、八日正午に富田林の杉山邸に帰ってきた。昼食をとり、囲碁などして、午後三時に古市に向かって発って行った。ところがそのあとへ千早村から雄鹿一匹が杉山邸に届けられて来た。それで人足を雇って古市まで運ばせたところ、大久保卿は東京へのみやげにするから大阪の宿まで届けてほしいと言ったので、富田林からの人足は雄鹿を大阪まで届けて帰ってきた。

千早村では大久保らがせっかく金剛山まで猟に来たのに、何もとれずに帰るのを気の毒に思ったのか、幸い村の人が撃った雄鹿をみやげに贈ることにしたのであろう。ところで、大久保利通が、その頃なぜ大阪に来ていたのであろう。


大阪市の市史編集室の藤本篤先生は、その著「大阪府の歴史」(山川出版社)の中でつぎのように書いておられる。


「明治七年(1874)十二月二十六日、内務卿大久保利通は東京から海路大阪に到着し、ただちに五代友厚の邸にはいった。“征韓論”の政変で、西郷隆盛・板垣退助が下野したのち、岩倉具視とともに新政府の中心となって、独裁体制をすすめてきた大久保であったが、”佐賀の乱“や”台湾征討“がおわったのちには、さすがに心身ともつかれ、有馬温泉で静養するといって来阪したのである。しかし静養は単なる口実であって、来阪のほんとうの目的は政府の補強工作にあった。そのころ征韓論にやぶれたり、台湾出兵に反対して下野した政界の実力者たちは、地方にあって、ことあるごとに反政府的な言動をとり、大久保の独裁政権にも、ようやくひびがはいりかけていた。そこで、大久保は政局安定をはかるため、木戸孝允や板垣退助を政府に呼びもどそうとしたが、これを知った井上馨や伊藤博文は、その調停をはかり大阪において大久保・木戸・板垣三者会談をあっせんしたのである」。いわゆる「大阪会議」で大久保は大阪に来ていたのである。「大久保につづいて、翌八年一月六日には木戸が、一月二十日には板垣が大阪にはいった」。「三者による“大阪会議”は井上・伊藤を加え、二月二十一日、北浜一丁目(東区)の料亭加賀伊で開かれた。」(前掲、藤本篤著「大阪府の歴史」より)


大久保利通が富田林の杉山邸で休憩し、金剛山に狩猟に出かけたのは、二月十一日に木戸孝允。板垣退助と会議をもつ前のレクリエーションであったのではあるまいか。

「とんだばやし歴史散歩」祢酒太郎著  (富田林市立中央図書館蔵書)

昭和51年(1976年)11月3日発行

昭和52年(1977年)11月10日第2版

祢酒太郎氏略歴

1917年 富田林市富田林町に生まれる

1947年 京都帝国大学経済学部卒業

1970年 富田林市役所市史編集室長

1974年 河南町助役

1976年 河南町助役退職

研究発表

1975年 大阪歴史学会・地方史研究協議会編

    「地域概念の変遷」(雄山閣)

     第二部文化財保存

     「富田林・文化財保全の問題点」




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