日本は水軍兵士の養成が遅れておりその強化策の目的で幕府が1855年10月に長﨑海軍伝習所を開設した。五代才助21歳、1857年(安政4年)2月に五代は第二期生として選抜され薩摩藩の他15名と共に入所。勝海舟(勝麟太郎)は幕臣中心の一期生として学び、引き続き指導者として残った。なお、二期生の伝習生は、佐賀藩47名、備前藩28名、薩摩藩16名、長州藩15名、津藩12名、熊本藩10名、福山藩4名、掛川藩1名である。
この長崎海軍伝習所での勉学時代を彦根城で撮影された。
撮影シーン
一つ目は、五代ら伝習生が校庭で銃剣の稽古に励んでいる場面
二つ目は、勝と龍馬の監督室での会話と、監督室の格子窓から伝習生たちが銃剣の稽古をしている校庭を見下ろしている場面です。(天秤櫓)
また、全く違う場面で、
三つ目は、鹿児島鶴丸城内で五代が島津久光から長崎海軍伝習所勉学の慰労と新たに上海での蒸気船購入の命を受け、城内から出ていくところに薩摩藩士と西郷隆盛に出会う場面です。(太鼓門櫓)
一つ目、五代ら伝習生が校庭で銃剣の稽古に励んでいる場面
才助「もういい! 実際に航海させろ!」
教官「列に戻れ!」
・・・・・・
才助「オレなら出来る!」
二つ目、勝と龍馬の監督室での会話と、監督室の格子窓から伝習生たちが銃剣の稽古をしている校庭を見下ろしている場面
勝 「あの男だ。薩摩の斉彬公から任された。あいつが書いた上申書の内容を聞いて驚いたよ」
龍馬「開国ですか?それとも攘夷?」
勝 「いいや、具体的な数字だ」
三つ目、鹿児島鶴丸城内で五代が島津久光から長崎海軍伝習所勉学の慰労と新たに上海での蒸気船購入の命を受け、城内から出ていくところに薩摩藩士と西郷隆盛に出会う場面
徳山「引っ込んでおらんにゃ容赦せんど」
才助「刀で人を殺しても世の中は変わりはせぬ。そういう時代になりもんそ」
・・・・
西郷「おいがいる限り、そうはさせん」
才助「・・・・」
西郷「器量より度量。おまんには誰もついてこんど」
参考写真:
長﨑海軍伝習所絵図(長崎市内案内掲示板写す)
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